香港&台湾ニューウェイブと共に生きた女優、シルヴィア・チャン。
その監督として、新たなる波を起こす、先鋭的な傑作の誕生。
台湾出身の映画人であるシルヴィア・チャンの名が世界に轟くようになったのは、70年代末に始まる香港ニューウェイブ映画の潮流に、主にスター女優として関わったことによってだ。アン・ホイ、徐克ら香港ニューウェイブ第一世代の旗手的監督の作品からジョニー・トー、スタンリー・クワンら当時の新世代監督の作品まで、多くの名監督の作品に出演し、国際的な評価、人気を確立した。また当時の香港ニューウェイブ映画の拠点となっていたシネマシティが製作する娯楽大作でも、看板女優の一員として活躍した。
けれどその間、彼女は生まれ故郷の映画界を見捨てていたわけではない。香港での活躍に較べると広くは知られていないが、香港ニューウェイブに数年遅れて始まった台湾映画の新しい波もまた、彼女の深い関与によって発生したと、いま振り返ると言えるからだ。
香港ニューウェイブは、既存の映画業界内からではなく、テレビドラマ等"外の世界"で才能を発揮していた新しい血を映画界に引き入れることによって始まったと総括できるが、その模式を台湾に当てはめ、現地に新しい波が起こるきっかけを作ったのが、ほかならぬシルヴィア・チャンだった。台湾映画界にニューウェイブが発生する直前の1981年に作られたテレビドラマ・シリーズ「十一個女人」がその最初の一歩。そこでプロデューサーを務めていた彼女は、自らも一部エピソードの監督や出演を担いつつ、まだ映画監督デビュー前だったエドワード・ヤン、柯一正らを他のエピソードの監督に招き入れる。そしてその成功をバネに翌年作られたのが、台湾ニューウェイブの幕開けを告げた全4話オムニバス「光陰的故事」だった。同作でエドワードや柯一正は、映画監督デビュー。シルヴィアも第4話で主演を務めた。続く83年、いよいよエドワード・ヤンが長編映画監督としてデビューした「海辺の一日」が生み出される。新人監督による芸術指向の強い作品だったにもかかわらず、本作には香港系資本シネマシティも製作に入っているのが目を引くが、これもシルヴィア・チャンが主演を務めていたことと無関係ではない。同年、柯一正も「帯剣的小孩」で長編監督デビュー。やはりシルヴィア主演、シネマシティ製作という組み合わせで実現したものだった。この作品では、柯一正の息子も子役としてスクリーン・デビューする。後に「あなたを、想う。」で主演する柯宇綸だ。
このように台湾映画の新しい波の勃興に絶大な貢献をしてきたシルヴィア・チャンは、やがて自らも映画作家として歩み始める。そして「最愛」「君といた永遠」「20、30、40の恋」などの作品で、監督としての評価を築いていった。ただ、産業として台湾以上に商業化されていた香港映画界に半分足場を置いていたせいだろうか、あるいは台湾ニューウェイブが芸術性に重きを置くばかりに観客離れを起こしていった姿を目の当たりにしてきたせいだろうか、彼女の監督作は総じて、商業映画として一般観客に分かりやすく語っていくことを重視した作風で知られてきた。そんななか、監督としての定評を完全に確立した彼女が、ついに芸術性、先鋭性の方向に大きく舵を切って作ったのが、この度日本公開される「あなたを、想う。」だ。
屋上に立つヒロイン(イザベラ・リョン)の引き画、台北市街の光景をバックに赤い塗料のついたヒロインの手をアップでとらえた画……。この冒頭の数ショットの積み重ねだけで、これから始まろうとしている映画が、これまでのシルヴィアのマイルドな作品とは根底的に異なるものであることが雄弁に物語られている。全編を通じ、時に物語の分かりやすさを犠牲にしてまで導入される、省略を多用した鋭利な編集。そして各ショットの尋常ならざる強度。たとえば、チャン・シャオチュアン演じる彼氏と食事中に喧嘩したヒロインが、その後、街を彼氏と無言で歩くショットや、その後、駅で彼女を見送るチャンをとらえたショットに漂う、ただならぬ力感はどうだろう。こんなショットが撮れるシルヴィアを、彼女の作品の長年のファンでさえ、初めて見たのではあるまいか。
物語の構造も、いつになく多中心的だ。基本はヒロインとその兄(クー・ユールン)の話。しかしそこに、彼らの親や、ヒロインの彼氏の過去から現在に至る話も絡んでくる。特に兄妹の母親(リー・シンジエ)は、出番こそ兄妹よりは少ないものの、モノローグのように聞こえる語りも入れられるなど、本作のもう一つの中心と言えるような立ち位置が与えられている。現在と過去を、時に夢幻も交えながら自在に往還する時制構成も、挑戦的だ。そして兄妹の故郷・緑島と台北という、台湾に共存する別世界を平行して映し出す、複数的な視点……。
ニューウェイブの才能を時に背後から、時に役者として支えてきた存在から、自らが監督として前面に立ち新しい波を継いでいく存在へ。「あなたを、想う。」には、そんなシルヴィアの決意さえ漲っているように見えてくる。
暉峻創三(映画評論家)