photo:YONHAP NEWS/アフロ
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ホ・スンホ(TANO International)
「嘆きのピエタ」の巨匠、波乱万丈な人生を終える
巨匠の最後の作品も悲劇だった。
韓国映画界において独歩的な存在だったキム·ギドク監督が12月11日、ラトビアでコロナウィルス感染による合併症で死亡した。
キム·ギドク監督は’04年ベルリン映画祭銀熊賞(監督賞)や’11年カンヌ国際映画祭ある視点賞、’12年ヴェネツィア映画祭金獅子賞を受賞するなど欧州3大映画祭でいずれも受賞した経歴を持つ監督だった。
しかし‘韓国が生んだ巨匠’と称された彼は、セックススキャンダルで一瞬奈落の底に落ちてしまい、結局は遠い国で一人寂しく世を去ったサッドエンドの主人公となった。
キム·ギドク監督は彼の独特の映画世界観に等しい成長過程を送った。
1960年12月20日、慶尚北道奉化(キョンサンプクド·ポンファ)で生まれた彼は、韓国戦争の傷痍勇士出身の抑圧的な父親によって小学校を卒業した後、進学の代わりに工場で働き、20歳になると海兵隊下士官として5年間服務した。
除隊後、彼はある視覚障害者の教会でボランティア活動をしながら、一時神学を勉強したりもした。
その後、30歳になると、彼は計画もなくパリへ発った。
後日、映画誌「キノ」から出た「監督辞典」のアンケートでこう語った。
「私に絵を描く時間と絵を通じて思索する時間がなかったら、決して映画監督になれなかっただろう。
だから私の映画の始まりは絵画だ」とするほど絵に集中しながらパリで3年間を過ごした。
しかし’93年、帰国の際に見た映画振興公社シナリオ公募展を通じてシナリオ作業に興味を感じ、すぐシナリオ勉強に集中するようになる。
その後「画家と死刑囚」のシナリオが作家協会創作賞大賞を、’94年には「無断横断」が映画振興公社シナリオ公募で大賞を受賞した後、自身のデビュー作である「鰐~ワニ~」を本格的に執筆した。
’96年釜山国際映画祭で初披露された制作費3億5千万ウォンの低予算映画「鰐~ワニ~」は興行にも成功せず、評論家の反応も良くなかったが少数の支持層を確保する。
続いて「ワイドル・アニマル」(’97)もやはり反応はそれほどよくなかったが、’98年の作品「悪い女~青い門~」から彼は少しずつ注目され始め、ベルリン映画祭に出品される快挙を成し遂げた。
その後、’00年に残酷な表現と女性卑下という議論を巻き起こした映画「魚と寝る女」がベニス映画祭本選に進出し、キム·ギドク監督を見る評論家の視線が変わった。
話題メーカーとなったキム·ギドク監督は「悪い男」(’01)で全国70万人以上の観客を動員し、初の興行作となったが、さらに’02年にはトップスターのチャン·ドンゴンが快く出演を決め、話題となった作品「コースト・ガード」で大きな注目を集めるようになった。
韓国よりも海外で多くの評価されたキム·ギドク監督は、9作目の「春夏秋冬そして春」(’03)で青龍映画祭作品賞を受賞し、韓国でも巨匠として認められ始め、10作目の映画「サマリア」(’03)でベルリン映画祭監督賞を、「うつせみ」(’04)でヴェネチア映画祭監督賞を受賞し、世界3大映画祭のうち2つの映画祭で監督賞を連続受賞する異例な記録を立てた。
その後、「弓」(’05)や「ブレス」(’07)などの作品があり、’08年にはオダギリジョーとイ·ナヨンが主演した映画「悲夢」で大きな自分だけのフィルモグラフィーを満たした監督は自分のすべてが集大成された最高の作品と言える、母性愛から派生した家族愛の憎悪心を描いた作品「嘆きのピエタ」で韓国初のベニス映画祭黄金獅子賞を受賞する。
こうやって監督として空前絶後の栄光の頂点を極めた彼は「メビウス」(’13)、「殺されたミンジュ」(’14)、「The NET 網に囚われた男」(’16)などの主要作品を演出して活発に作品活動に邁進したが、2017年から衰退の道を歩むようになった。
強要、暴行、強制わいせつ致傷などの容疑で告訴され、彼の暗い行動が表面化し始め、ミートゥー(Me Too)運動が始まった2018年、映画撮影場で行われた性的暴力及び人権侵害の容疑などが暴露され、奈落の底に落ちた。
その後、韓国での活動を全て中断し、自分を受け入れてくれる海外に出向き、今年カザフスタンでロシア語で撮影された新作「ディゾルブ」を現地の俳優たちと撮影したことも彼の最後の近況だった。
屈曲して非定型的だったそれでいつも極端だった彼の作品世界に対する評価はひょっとしたらこれからが始まりだろう。
映画界に常に衝撃を与えてきたキム·ギドク監督のは一時ミートゥー論議に包まれたが、監督として彼が韓国映画歴史をはじめ、世界映画界に大きな足跡を残したことは誰も否定できないだろう。