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review

カム・ヒア
「Asian Film Joint 2021
アノーチャ・スウィチャーゴーンポン監督特集」より

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夏目深雪


解体され、更新される「わたし=映画」

11月22日(月)より「Asian Film Joint 2021 アノーチャ・スウィチャーゴーンポン監督特集」が開催される。その中から「カム・ヒア」をレビューする。

アノーチャ・スウィチャーゴーンポンの新作「カム・ヒア」は列車が線路を走っていくシークエンスから始まる。

舞台はタイ西部のカンチャナブリ。
第二次世界大戦下に日本軍による強制労働があり、何万人もの死者が出た場所に、現代のタイの4人の若者が来る。

彼らは「死の鉄道」記念碑を訪れる。
2018年に閉園となったドゥシット動物園に訪れるシーンもあり、その政治的意味はタイ在住者ならすぐにピンと来るであろう。

アノーチャの出世作「暗くなるまでには」も、1976年に起きた悪名高い血の水曜日事件――左派学生と市民運動家のデモ集会に、極右団体と手を組んだ警察隊が乗り込み、数十名の死者と150名の死者を出したタンマサート大学虐殺事件――を扱っている。

だが、扱っているといっても、学生たちが地面に突っ伏し銃を突きつけられている、タイでは有名な画が引用されるだけだ。

その後、そのデモに参加していた元活動家の女性作家をインタビューする映画監督というエピソードに移るが、そのことに対して踏み込むわけではなく、様々な(直接関係のない)イメージが入り込み、いつの間にか弾圧などの政治的なイメージは散逸してしまう。

新作「カム・ヒア」もその点では同じだ。若者たちはたわいもないことを喋り合い、日本軍による強制労働や動物園の閉園などの問題を語り合うわけではない。

ただ、「暗くなるまでには」ほどイメージが縦横無尽に散乱するわけではなく、列車が走っているシーン、4人の正面からのショット、4人が家の前で吞みながらたわいもない話をするシークエンスなどが交互に現れる。

脈絡のない強い映像で時系列や整合性を壊しながら強烈な映画作りをする作家はいる。

だが、アノーチャと並べるのであれば、そういった――例えばニコラス・ウィンディング・レフンのような――作家より、私はアジアの二部構成の作家――ホン・サンスとアピチャッポン・ウィーラセタクン――を並べたくなっている。

それは「カム・ヒア」を観て特にそう思った。

何故なら、通常のナラティブに沿いたくないという欲望が、(レフンのように)「最終的に人々に衝撃を与える」ために駆動しているわけではないと思うからだ。

二部構成という形式は、ホン・サンスとアピチャッポンによって有名になったが、2人とも同じ欲望に基づいているわけではないだろう。

二部構成の最後に結論がつかないアピチャッポンに較べ、二部構成においても神経衰弱のように答えが用意されているホン・サンスの狂気じみた緻密さ。

アノーチャの映画の構成にも緻密さは感じられるが、ホン・サンスのように観客が「答え合わせ」を強要されるわけではない。

そもそもアノーチャの映画は二部構成のものはない。

だが、女性作家と映画監督の組み合わせが、別の女優によって繰り返される「暗くなるまでには」は二部構成の変奏、列車が走るシーンや森を一人の女性が逃げていくシークエンスが何度も挿入される「カム・ヒア」は、並列した話がいくつかあるということからも、細かくブツ切りにされた三部構成とも考えられるのではないか。

何故通常の起承転結に沿った話運びをせず、反復やそれによるズレや変奏といった二部構成という作りにするのか。

タイは、アノーチャ監督を始めとして、アピチャッポン以下登場した若手監督が通常のナラティブに沿わない作家が多いことに驚かせられる。

勿論アピチャッポンの成功に背中を押されていることもあるのだろうが、政変を繰り返し、その度に歴史が改変されてきたタイ独特の歴史観も影響しているのかもしれない。

だが、それよりも、二部構成の反復やそれによるズレや変奏によって、映画にもたらされているものに注目してみたい。それはリニア感であろう。列車が走るシーンが何度も挿入される「カム・ヒア」はそのことを思い出させる。

映画とは何よりも、通常は「わたし」の世界を表現するものだと思われている。作家主義は、その映画を評価するには必要悪の考え方であろうし、(便宜上)その映画作家のセンスで全てが統合されていると感じることは観客の喜びに繋がる。

アノーチャは、シークエンスごとにブツ切りにすることによって映画全体を解体し、同じ役を違う役者に演じさせること(「暗くなるまでには」)、唐突に俳優を正面からのショットで捉えること(「カム・ヒア」)などによって「演じる」ことも解体し、あらゆる手段を使って映画を各素材まで落としている。

そして各素材は列車に乗って新しい「映画」の旅に出る。そこでは監督は主人ではなく、観客とともに一人の乗客に過ぎない。

映画は主人の手を離れ、自由に線路を走り出す。生き生きと。

行き先が映画にも現実――タイの過酷な過去――にも属さない、未来とも、希望とも、ユートピアともつかない何処か――各人にとってかけがえのない場所――であることを、我々はもう知っている。

※本稿は筆者がモデレーターを務めた、11/18(木)に行われた「Asian Film Joint 2021 アノーチャ・スウィチャーゴーンポン監督特集 フォーラム アノーチャ・スウィチャーゴーンポン入門」での、登壇者である佐々木敦・吉岡憲彦各氏の発表、及び3人での討論にインスパイアされたものであり、ここにお2人に御礼を申し上げます。


Asian Film Joint 2021
アノーチャ・スウィチャーゴーンポン監督特集

<上映作品>
「カム・ヒア」
「レモングラス・ガール」
「暗くなるまでには」
「ありふれた話」

「カム・ヒア」
2021年/タイ/ 69分
監督:アノーチャ・スウィチャーゴーンポン

11月22日(月)~28日(日) 福岡 KBCシネマにて上映


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