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review

シャドウプレイ

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児玉美月


「無意識」とは、ロウ・イエの描く
「性愛」とは、いったい何か

漠として霧渡った広州の河畔――。

鬱蒼とした茂みの奥へと女に手を牽かれた男は、灌木の傍らに寝転がり、波のざわめきのなかで徐に静的な情事に及ぶ。

快楽に身を委ねた女は高まる緊張が極致に達する寸前、この幻想を切り裂くかのような禍々しい現実(=アユンの屍)に手を触れてしまう。

絶叫。男は脱兎の如く逃げ去る彼女を、一糸纏わず慌てて追いかける。

すかさずロウ・イエの作品で頻出する街を俯瞰するショットが差し込まれると、そこから物語は刮目すべきダイナミズムをもって加速してゆく。

2013年4月、屹立する高層ビルに囲まれ箱庭のように存する「都会の村」で、この地区の再開発に向けた立ち退き計画に反対する住民らが暴動を起こしている。

その様子をカメラは瞬きをするように矢継ぎ早なモンタージュで捉えていく。

立ち退き計画を主導する開発責任者タン・イージエ(チャン・ソンウェン)はこの日、建物の屋上から転落死してしまう。

その不可解な死を巡って刑事のヤン・ジャートン(ジン・ボーラン)は突き動かされてゆく。

「シャドウプレイ」の起点となるのは、タンが妻のリン・ホイ(ソン・ジア)、辣腕な経営者ジャン・ツーチョン(チン・ハオ)と出会った1989年。

現在に至る中国の著しい経済成長の分水嶺となった天安門事件が起きた年である――「天安門、恋人たち」(06)でも、ロウ・イエは民主化運動を展開する1989年の学生たちが生きた時代を描いていた。

タンはジャンに付き従うことでこの経済成長の有卦に入り、富と地位を築き上げていったのだった。

私利私益に走ることで懐を肥やした彼らの、あるいは、この国の経済成長の軽佻浮薄さを表現するかのように映像は躍動する。

ヤンは捜査を進めるなか、タンの秘書であるワンから、失踪したはずのリエン・アユン(ミシェル・チェン)に似た女性をタンの死の直前に目撃したと告げられる。

ここで生まれたもう一つの謎が鍵を握っていると確信したヤンはリンの下へ赴くも、誘惑されるがまま彼女と肉体関係を結んでしまう。

翌日、何者かによって暴露されたヤンとリンとの情事は世間でスキャンダルとなる。

そして、事件直前のアユンの証拠写真を手に入れたとの連絡がワンから入り、ヤンは駆けつけるも、今しがた何者かによってワンは殺されたところであり、ワン殺害の濡れ衣を着せられる。

窮地に陥った彼は探偵アレックス(エディソン・チャン)の下、香港に潜伏する。

こうして編まれた「探索される探索者」なるプロットは、かのアルフレッド・ヒッチコックが繰り返し用いてきたものだろう。

ほかにも、精神病院にてバックショットでシームレスに年代を跨ぐ映像を繋いでみせるのは「ロープ」(48)を、死んだアユンを模倣するようにピンクのウィッグを付けたヌオ(マー・スーチュン)によって屋上からタンが突き落とされるのは「めまい」(58)を、探偵事務所での暴動事件で片足を負傷し車椅子に乗ったアレックスがビルの一室から望遠鏡を覗いて窓の外を眺めているのは「裏窓」(54)をそれぞれ想起させる。

このようにして「シャドウプレイ」にはヒッチコック的な意匠が鏤められ、サスペンス映画史が踏襲されている。

作家は往々にして映画的記憶を手繰り寄せてしまう。

作家の意図を超えた無意識がそれを反復するのだ。

やがてヤンはブログでアユンとの関係を匂わせる投稿をしていたリンの娘ヌオに目星を付け、クラブへと会いにゆく。

失踪したアユンを連想させるピンクのウィッグを付けて姿を現した彼女は、ヤンがほかの女の子と顔を近づけて会話しているのを見て、目に涙を浮かべる。

遣る瀬ない気持ちでクラブの外へ出て煙草に火を付ける彼女の横にヤンは並んで座る。

ヌオはふと立ち上がりヤンの手を牽いて、ビルの一室へと雪崩れ込む。

その直前にリンとの情事を静観したばかりの観客は、ふたたび女に導かれて気のない情事に至る描写に不気味な反復を感じるだろう。

軽薄に移ろう性愛の描写は、ロウ・イエの過去作に繰り返し見られてきた。

「パリ、ただよう花」(11)は、教師として北京からパリへやって来た中国人女性の花(コリーヌ・ヤン)が、工事現場で働く肉体労働者のマチュー(タハール・ラムヒ)との性愛関係に執着しながらも、複数の男たちの間をあてどなく漂う物語であった。

「二重生活」(12)は婚姻関係にある女性とは別の女性との間にも家庭をもつ父親ヨンチャオ(チン・ハオ)が繰り広げる二重生活を描く作品だが、彼女たちのみならず何人かの女たちとの性愛関係が示唆されていた。

こうした複数の人間が織りなす複雑で錯綜した説話構造は、双生児かのように見まごうふたりの女とそれぞれの恋人を中心に性愛関係が交錯するロウ・イエの初期作「ふたりの人魚」(00)にすでにその原型があったといえよう。

「スプリング・フィーバー」(09)では、ある女性に浮気調査を依頼された探偵ルオ・ハイタオ(チェン・スーチョン)が、彼女の夫ワン・ピン(ウー・ウェイ)がジャン・チョン(チン・ハオ)という青年と同性愛の不倫関係にあることを突き止める。

しかし、尾行を続けるルオはジャンと接触するや否や、すぐさま彼と性愛関係に陥る。

「スプリング・フィーバー」は水面に浮かぶ睡蓮の花のショットで始まるが、換喩的にずらされてゆく彼らの性愛関係は、睡蓮の花のように根無草なものに等しい。

ロウ・イエの作品で性愛の描写は、決まっていつも唐突に始まっては繰り返される。

そこには主体の意志さえ関わっていないように思われる。そう、主体の意志を超えた無意識がそれを反復してしまうのだ。

「無意識」とは、ロウ・イエの描く「性愛」とは、いったい何か……。

つまるところ、それは運命の巡り合わせと呼ぶべきものにほかならない。

彼の映画に霧や雨のモチーフが多用されるのも、無辺際に広がる運命の流動を思わせる。

一度出会ってしまったふたりは、そのあわいに立ち籠める性愛に呑み込まれるようにしてつねに結ばれてしまう。

そこにもはや主体は介在せず、運命のなすがままに見える。

ヤンとリンとの情事のあとには、スキャンダルが待ち受けていた。

そして、ヤンとヌオとの情事のあとには、思うままにならないヌオの孤独が描かれていた。

一時の快楽に身を委ねたあとには、禍々しい現実が待ち受けている。

運命的な性愛とその幻想を切り裂くかのように待ち受ける現実の反復は、経済成長の著しい中国の時流に乗り奢侈に溺れる彼らの繁栄と転落の物語と重ね合わせられ、確かな説得力をもつだろう。

この映画の主題歌「一場遊戯一場夢(一夜のゲーム、一夜の夢)」が表すように、それは「一夜の夢」でしかない。

ロウ・イエが映像に惜しみない夢を注ぎながら描き続けているのは、決まって同じ運命の籤を引いてしまうかのように、儚い幻想に呑み込まれては禍々しい現実に触れてしまう人々、そしてそれをどうしようもなく反復させてしまう無意識の性愛なのかもしれない。


「シャドウプレイ 完全版」

監督:ロウ・イエ
出演:ジン・ボーラン/ソン・ジア
2019/中国/129分
配給:アップリンク
(c) DREAM FACTORY, Travis Wei 1月20日(金)より新宿K’Sシネマ、池袋シネマ・ロサ、アップリンク吉祥寺 ほか全国順次公開


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