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月永理絵
私が私であるとはどういうことか、
という自己の存在を問う遊戯
まるで英会話のレッスン映像を見ているよう、それがホン・サンス「旅人の必需品」に対する素直な感想だ。ほぼ全編にわたって英語での会話がなされるうえに、ほとんどが初歩的な言葉ばかり。イザベル・ユペール演じるイリスという女性は、フランスから韓国へ来て語学を教えている人という設定だから、会話が英会話のレッスンのようでも別に不思議はない。でも彼女が教えるのは本来フランス語のはず。それなのに、フランス語ではなくなぜ英語ばかりが話されるのか。
映画は、イリスが訪ねる三軒の家を舞台に、三幕構成のように進行する。まずは一人目の生徒である若い女性とのレッスン。イリスは教科書を使わず、両者の共通言語である英語でコミュニケーションをとりながら、会話を進めていく。シンプルな会話の応酬が続き、ふいに音楽が奏でられ、授業はいつのまにか終わっている。続いて二人目の生徒の家へ。イ・ヘヨン演じる中年女性は、一人目の生徒よりも若干攻撃的で、ふたりのあいだにはピリピリとした空気が流れる。だがマッコリを飲み交わすうちに徐々にその空気が変化する。そして最後に訪ねるのは、語学の生徒ではなく、イリスがいま居候をしている若い青年の家。この三つ目のパートで、イリスという女性がどのような人で、なぜフランス語のレッスンをしているのかが少しずつ解き明かされていく。
イリスのレッスンは普通とはだいぶ違っていて、どこまでがレッスンで、どこからが雑談なのか、よくわからない。ときにはレッスンを受ける生徒以外とも、英会話の教科書の1ページ目に書かれた例文のような会話が交わされる。“Is this a pen?” “Yes, this is a pen.”のような。大真面目なのかふざけているのか、そのどちらでもあるような姿勢にふっと肩の力が抜けていく。
単調な繰り返しばかりが続く会話を聞きながら、そもそもホン・サンスの映画で会話はいつだって外国語学習の例文会話のようだった、と思い出す。固定されたカメラの前で人々は延々と会話を続けるが、そこでは必ずしも難しい内容が話し合われるわけではない。「仕事の調子はどうですか?」「ご家族はどうしていますか?」「今日はどうしてここに?」といった、どこか他人行儀でシンプルな質問と応答がひたすら交わされていく。会話の途中で沈黙が訪れることは少ない。質問と答えとの隙間は、たえまない相槌が埋めてくれるからだ。
「旅人の必需品」では、「あなたはそのとき何を考えていましたか?」というイリスの質問が何度かくりかえされる。そして「嬉しかった」「幸せだった」という通り一遍の答えに対し、質問者はさらなる追求を重ねる。「嬉しくて、それで?」「なぜ幸せだった?」「その感情の他には?」。投げかけられるのは相変わらず単純な質問ばかり。けれどそれらが間をあけずに繰り返されることで、語学のテキストのような会話はいつしか核心をつくような深遠なものに変わっていく。イリスが行うのは、私が私であるとはどういうことか、という自己の存在を問う遊戯だ。
単純さから生まれる本質的な何か。見過ごしてしまいそうなその何かを探すことが、ホン・サンス映画を見るよろこびだ。
「旅人の必需品」
監督・脚本・製作・撮影・編集・音楽:ホン・サンス
出演:イザベル・ユペール/イ・ヘヨン/クォン・ヘヒョ/ハ・ソングク/キム・スンユン
2024年/90分/韓国
英題:A Traveler's Needs
配給:ミモザフィルムズ
11月1日(土)よりユーロスペースにてロードショー
*ホン・サンス監督のデビュー30周年を記念し、新作5本を5か月連続で公開する「月刊ホン・サンス」の開催が決定。「旅人の必需品」はその第1弾となる。また上映にあわせて、特別パンフレット「月刊ホン・サンス」(編集長:月永理絵)を毎月1冊刊行予定。新作とともにホン・サンスのこれまでを振り返る内容となる。
暉峻創三による「ホン・サンスはどこへ行く?」論
「ホン・サンスが撮った映画」論
「ホン・サンスが描く旅と街」論
40ページに及ぶ“ホン・サンスの世界”を掲載。
定価:2,420円(税込)
発行:A PEOPLE
ユーロスペース、Amazonほか一部書店にて発売中