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「台北暮色」
新たな時代の、孤独とコミュニケーションをめぐって
相田冬二 × 小林淳一

映画に関するノベライズ、執筆を手掛ける相田冬二にA PEOPLE(エーピープル)編集長・小林淳一が聞く対談連載。今回はホアン・シー監督作品「台北暮色」。12月1日に行われるトークライブのテーマにも決定。


小林淳一(以下小林) 昨年の東京フィルメックスで「ジョニーは行方不明」のタイトルで観たとき、相田さんも自分も「森田芳光だ!」って、盛り上がりましたよね。シチュエーションしかない、物語がない、というところを堂々とやっていたので。

相田冬二(以下相田) カタルシスがない、ということですよね。何もない映画「メイン・テーマ」なら、“カタルシスがないというカタルシス”ということをやっていた。ホアンは、“カタルシスがなくてカタルシスはやっぱりない”ということをやっている。感触が違う。そこは違いますよね。ただ、ここで描かれている渋滞は森田芳光的とも言えます。豊かさを描いている。渋滞というものを停滞ととらえなくてもいいわけじゃないですか。それは束の間のロングバケーションである、と。求めているか求めていないかはともかく、付与されたものなんですよね。それは豊かなこと。おおざっぱな希望を抱ける映画だなあと感じました。

小林  一方でふたりが走るシーンがある。あそこにときめきを感じてしまうという。

相田  それっぽい音楽もあそこで流れますしね。

小林  それはある種映画的だし、お客さんがこの映画の中で数少ない躍動しているところと感じるでしょう。

相田  走るシーンについては逆説なのかなという感じもしています。ああいうことをありがたいこととして、エモーションの権化のように扱うのが一般的だし、映画とはそうしたものである、という考え方がありますが、果たしてそうなのか。

小林  走らなくては生きられない、という話にはしていない。普通の映画だとそのときめきのために生きましょうとなる。しかし、「台北暮色」はエンストのほうに答えがあるということですよね。

相田  ふたりでその場所にいることのほうが大事、ということですよね。

小林  車の中も、セブンイレブンの前も、走った後に地べたに座るのもそうですよね。

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相田  セブンイレブンのシーンなら、お互いの話がしたくてしたんだとは思います。ただ、それが必ずしもお互いに対する理解を深めたということにつながっているかというと、実はそうでもないし、どうでもいいこと。ふたりでいっしょにいるのが重要。何もしなくてもいいんです。ただ、言いたくなったから言った、それでいい。車もどこに向かっているわけではない。どこかには向かっているんだけれど、どこかに辿り着くことが重要なわけではない。我々は移動するということに憑りつかれているから、どこかに辿り着くだろう、という本来ないはずのカタルシスを求めてしまう。どこかに辿り着かなくていい、移動しなくてもいい、ふたりでいることのほうが重要なんだと。

小林  三宅唱監督の「きみの鳥はきこえる」はすばらしいし、“いま”を描いている作品だと思うんですが、恋愛はするじゃないですか。ホアンはさせない。それが“いま”な感じがする。キスもしない。

相田  水たまりのシーンがあるじゃないですか。水たまりとは、ヒエラルキーがないということだと思う。この映画は、20代30代40代の人の話である、というふうには見えます。
世代間の交流であるとか、あるいは、格差をあらかじめ抹消されているとまではいわないけれど、格差を消去しうるつかの間の関係性を紡いでいる。それはものすごく意志的なことだと思います。そのことを可能にする都市が台北だった。そうした台北をとらえるホアンの視線がある。関係性においてヒエラルキーというのはないんだ、という。

小林  3人に関してはないですよね。しかし、彼女と愛人の関係にはそれが見える。

相田  恋愛において顕著になるし、友情においてもそれは顕著になる。ヒエラルキーというのはそもそも、国籍とか原語が違うと飛び越えることができるものなんです。日本語で話をしている、同業者と話をしている、あるいは好きな異性と話をしている、とかをしていると、相手のことが自分について回り、非常に不自由なことになる。本来そういうものではない。
森田芳光監督がやってきたのもそういうこと。その関係性がこの3人の登場人物にはある。
ホアン・シーは、村上隆の言葉で言えば、スーパーフラットなことをやっている。もし、ホアンが現代的であるとすればそこだと思うんです。世代間格差のある人がとりあえずのアウトサイダーとして描かれているんだけれど、そこには、ヒエラルキーはないというか。シリアスな状況を抱えているんだけれど、健康的に見えるのはそういうことなのかな、と。