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photo:星川洋助

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飯塚花笑
「世界は僕らに気づかない」

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賀来タクト


小さなボタンの掛け違いだけで
お互いがすれ違ってしまう

――日本人の父とフィリピン人の母の間に生まれた高校生を主人公にしたこの物語は、副題にある「Angry Son」=怒れる息子がやはり創作の出発点になるのでしょうか。

「Angry Son」については、後付けのタイトルです。出発点としては、ゲイの高校生の話で、フィリピンと日本のダブルという設定もありませんでした。8年くらい前のことです。大学を卒業し、オリジナルの映画をやりたいという思いの中で書いた脚本でした。完成品と同じ純悟という名前の高校生が自分のセクシュアリティを理解してくれない母親に悩むという内容だったんですけど、そこから時代が進んでいって、日本の中でセクシュアルマイノリティに対する理解が急速に進んでいったんです。2015年に渋谷区でパートナーシップ制度が導入されたりして、メディアにも当たり前のようにLGBTQという表現が登場し始めた。そうしたとき、この物語をそのまま映画にしても意味がないと思ったんです。同じような登場人物を描き続けても、セクシュアルマイノリティのイメージを固定化させてしまうだけだろうと。やはり、そのイメージは時代とともに変化していくべきで、多様性を持たないといけないだろうと。では、どうしたらいいのかと考えたとき、たまたまラグビーや相撲の世界で「日本にルーツのない選手」についての話題が高まっていました。そういう人種の問題を感じたのが2018年くらい。実際、スポーツの世界だけでなく、この世の中にはそういう方が日常にいっぱいいる。技能実習生の方もいれば、コンビニでバイトされている方だって珍しくない。そもそも、純悟と同じような同級生が僕の身近にもいたんです。彼の家に遊びに行ったとき、夕方になって「そろそろ帰るね」と言うと、すごく寂しがりました。当時はその理由がわからなかったんですが、大人になってから母親がフィリピン・パブで働いていて夜通しいないことがわかった。そのことを思い出してから、いろいろ気になって調べてみたら、日本にはおよそ27万人のフィリピン人がいて、日本人と結婚して生まれた二世の中には学校でのいじめだけでなく、ネグレスト的な状況にある人も少なくないと。そういう人種的マイノリティーの状況がやがて物語に入っていくことになり、フィリピン人の母とダブルのゲイの息子の物語になっていったという感じです。

――前作「フタリノセカイ」は完成度の高いトランスジェンダーとセスジェンダーの恋物語でした。作家としては同傾向の物語を掘り下げる方向に行ってもおかしくないところです。それが別の視点を取り入れるようになられた。

意識が変わったのかもしれません。今までは自分の内側のもの、自分の感じていることをどう表現するかに一生懸命でした。それが今は社会にあるものを取り込もうとしている。見ている方向が「フタリノセカイ」を作っていた頃とは明確に変わりましたね。

――その意味では、今回の映画は飯塚監督にとっては作家的な過渡期を示す作品といえるかもしれません。今後、より広い視野の世界観を獲得するための。

そうなっていくような気がします。「フタリノセカイ」を作ったことで、自分がどんどん外の世界に出て行って、観客の方がどういったものを見たいのかを考えるようになりました。ひとりの人間としても、パートナーとの関係も含めて対人関係が変わっていますし、常に発達段階にあると思っています。だから、ある意味で自然のなりゆきともいえますし、(作り手として)意識しなければならないところでもあると考えています。

――飯塚作品の面白さとは、個人的な体験から出発しながら、私小説みたいにならないところでしょう。それが今回の作品ではより明確になっていますし、個人的問題に根ざしつつ、より普遍性、客観性が強まっている。

もしかしたら、それこそ僕がいちばんこだわっているところかもしれません。作品を作るときはいつも個人的ですごく小さなことなんです。僕自身、母親に対してずっとわだかまりがありました。長い間、正面から顔をつきあわせて話せずじまいに終わっていたんです。この映画の中でも純悟の台詞として書いているんですけど、「いいから謝ってくれ」ということですね。純悟が朝食の鮭をいじりながら母親に話すくだりです。その一点だけがずっと母親との間で引っかかりになっていました。実は、それだけともいえるんです、この映画に込めたことって。小さなボタンの掛け違いだけでお互いがすれ違ってしまう。でも、それって、誰の人生にも起きることじゃないですか。名前の付けようのない感情を言語化する、といいますか。自分の中で抽象的なままになっているものをどんな人にも届くような形に変換して表象する。そしてそれを、スクリーンを通して多くの人と共有する。それが映画でできることですし、僕のできることなんじゃないかと思うんです。

――そういう人間的な部分でウソをつきたくないという意志は、もしかしたら飯塚監督が脚本家の加藤正人さんや根岸吉太郎監督に学ばれたところかもしれないと推察するのですけど。

加藤さんや根岸さんとは一緒にお酒を飲んでいたくらいで、そんなにたいしたことは教わっていないかもと思いつつ(笑)、(創作における)魂みたいな部分は(自分の中にも)あるかなと。加藤さんは「脚本とは足で書くものだ」とおっしゃっていて、脚本の「脚」とは「足」のことだと。自分の知らない世界を描くということは責任を伴うことであり、その場所で生活している人のところへ行って生活を肌で感じなければならないと。そこはすり込まれましたね。いわゆるフィールドワークです。僕があえて山形の大学を選んだのは、フィールドワークが好きだったこともあります。当時、東北文化研究センターというものが民俗学の研究施設が大学内にあって、僕も研究者の手伝いで出入りしていました。知らない土地の生活を知るというのは楽しかったですし、今回の映画ではフィリピン・パブにも行きましたし、フィリピン母子の家庭にも伺って一緒に食事もしました。そういう足で稼いだことが映画の中には入っていると思います。
作家としては、自分が見たことのないものを見たいわけです。たとえば、海外の映画祭に参加したとき、ちゃんと「これが日本だ」といえる作品ってなかなかありません。だったら自分で作ろう、今、日本で起きていることをちゃんと知らせたいという欲求が自分の中で大きくなっていますね。

――それでいながら、教条的になっていないところも素晴らしいです。「世界は僕らに気づかない」もきちんと娯楽映画として成立しています。

そこも意識している部分です。一生懸命生きている人たちが愛おしく、かつ面白おかしく見えないとダメだと思っています。

――その意味では、フィリピン人母親役のガウさんは見事に演じられています。

ガウさんはずっと演じ方を悩まれていましたね。純悟役の堀家一希くんと自分の守りたいものについてぶつけ合った結果、映画のような形になった感じです。現場で作られていったところはあったと思います。僕が思う演技って、演出側が「こうだ」と決めていくものではなく、それぞれのアイデンティティーを持った人間同士がぶつかり合えば勝手にドラマが生まれてくるものだろうと。僕が決めるのはそのスタート地点を決めることだけで、それを脚本に書いているわけです。僕がやったのは、役者がキャラクターのアイデンティティーにピンと来ないとき解釈を手伝うことでした。クランクイン前には堀家くんやガウさんに、それぞれの役がどういう人間なのかをすごく議論しましたね。

――「フタリノセカイ」もそうでしたが、この映画で面白いなと思ったのは、問題を起こしている人たちの前にスッと救世主のような存在が現れることです。

そういうところ、あるかもしれません。初めて作った「僕らの未来」という映画でも、「フタリノセカイ」の添田俊平(松永拓野)やこの映画の里奈(村山朋果)みたいなメシア的な人間が出てくるんです。時間軸でたとえると、悩めるふたりは自分の「過去」で、メシアは「今」の自分の視点ですね。「こういう解決方法があるよ」と伝える役目を持って、別の時間軸から働きかけるといいますか。強く意識しているわけではないのですが、脚本を書きながらそういうものを入れようとする感覚があるのかもしれません。要するに、映画に出てくる悩める主人公は過去の自分であって、すごく個人的な存在。でも、それを咀嚼しないと作家としては問題を乗り越えられない。そこに、もう少し広い視野を持った現在の自分が解決を手伝いに来るという形なのかなと。なんだか、自分の中で全部、完結してしまっているような話で、ちょっと恥ずかしいんですけど(笑)。

――問題意識をしっかり内面に備えているということでは、描くものがボンヤリしがちな現代の映画作家の中において、飯塚監督は現在、希少な存在かもしれません。

「僕らの未来」を書いた19歳のときは右も左もわからず、荒井晴彦さんに脚本をボロクソに言われたんですけど(笑)、ボロクソに言われてよかったと思っています。「あなたが経験していることなのに他人事のような内容だ」って言われて、確かにおっしゃるとおりだと。その後、1年間、自分の脚本と向き合って、結果、ぴあフィルムフェスティバルで審査員特別賞をいただけました。その後、バンクーバー国際映画祭に呼ばれて、イギリスの女性ライターに「あなた、日本代表で来ているんだから、日本のことをちゃんと語れないとダメですよ」って言われたんです。審査員の方々にも「あなたの作品は主観的すぎる。社会性がない」って。荒井さんに「自分と向き合え」と言われて直した作品なんですけどね(笑)。海の向こうで正反対のことを言われてしまったという(笑)。でも、おかげで日本のことを描ける作家になろうという意識を持つきっかけをいただきました。

――この映画ではひとつだけわからないことがあります。それは、なぜ純悟がカメラを持って写真を撮っているのかということ。その写真は一度も登場しませんし、あんなに貧乏なのにあのカメラをどうやって手に入れたのか。

日本人だったらある程度夢をストレートに追いかけられるんです。カメラマンになりたいと思えば、その道を真っ直ぐに進むことができる。でも、フィリピン人は違うんです。自分の目標ではなく、自分を支えている者のために生きようとする。それがどこから来ている考えなのかはいろんな説があるんですけれど、純悟はカメラマンになりたいと憧れていたんです。裏設定として、あのカメラは(家を出て行った日本人の)父親が残したものであり、純悟はいつか父親のようになりたいと考えていると。純悟はカメラに父親の姿を重ねていたんです。でも、純悟はその夢を諦める方向に行く。そこにフィリピン人的精神を込めたいと思ってあの選択を描いたんですけど、この映画を見たフィリピン人の方々からは「彼(純悟)はフィリピン人になったんだね。フィリピン人のアイデンティティーを継いだんだね」ってすごく喜ばれました。わかりやすい説明は一切入れなかったんですけど、ちゃんと理解してもらえたみたいです。純悟がカメラを捨てるということがフィリピン人的選択だったんですね。彼らが大事にしていることをあらためて理解しました。

――加藤さんから「純悟がカメラを置くシーンを入れろ」と言われるんじゃないですか。

確かに、加藤さんならそのシーンを書かれたかもしれませんね(笑)。

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「世界は僕らに気づかない」


「世界は僕らに気づかない」

脚本・監督:飯塚花笑
出演:堀家一希/ガウ
2022年/112分/日本
配給:Atemo
(c)「世界は僕らに気づかない」製作委員会
2023年1月13日(金)より新宿シネマカリテ、Bunkamuraル・シネマほか 全国ロードショー

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