「En Route To」
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月永理絵
少女たちの奇妙な連帯のありよう、
ユ・ジェイン監督の長編デビュー作、ほか3本
韓国映画アカデミー(KAFA)製作、ユ・ジェイン監督の長編デビュー作。今年から釜山国際映画祭に新設されたコンペティション部門で上映された「En Route To」は、寮の同じ部屋に住むふたりの女子高校生が体験するある旅路、さらにはっきりと言えば“中絶”へと続く旅路を描く。
夜の道路をふらふらと歩く少女の後ろ姿を追いかける冒頭場面は、不穏で悲劇的な物語をまず想像させる。夜中にこっそりと寮を抜け出した高校生のユンジ(シム・スビン)は、既婚の担任教師と付き合っているが、彼の子を妊娠し、出産の意思を告げた途端、相手は忽然と姿を消す。頼れる家族も親しい友人もいない少女は途方にくれ、違法なピルを購入し中絶をしようと計画する。彼女の異変に唯一気づいたのは、ルームメイトのギョンソン(イ・ジウォン)。ただしふたりは親しい友人ではない。同じ部屋で生活をするなかで、互いの変化や秘密を知らぬ間に共有しているだけだ。
ユンジは、違法ピルを買うための資金をギョンソンの貯金箱から盗むが、それはギョンソンがオーストラリアへの移住を目指しこつこつと貯めた大事なお金だ。怒ったギョンソンは金を取り戻そうとユンジを追いかける。こうして、ふたりは図らずも旅の道連れとなる。
望まぬ妊娠をし違法な中絶を選ぶ少女と、それを手助けすることになるもうひとりの少女。彼女たちは自分たちだけでこの事態に対処しようと奮闘し、時間との戦いのなかで徐々に追い詰められていく。その主題と構図は、オードレイ・ディヴァン監督「あのこと」(21)やエリザ・ヒットマン監督「17歳の瞳に映る世界」(20)、クリスティアン・ムンジウ監督「4ヶ月、3週と2日」(07)といった先行作を思い起こさせる。
しかし意外なことに「En Route To」は当初想像した物語とムードから大きく道を外れていく。ユンジの心は常に揺れ動き、中絶のチャンスは何度も延期される。大胆でちゃっかり者のギョンソンの行動はたびたび笑いを生み、この映画がただの悲劇ではないことを示唆する。さらにユンジの恋人の妻が登場し、物語はさらに思いがけない方向へと導かれる。
グルーミングという名の性的虐待や、若い女性の中絶といった深刻なテーマを扱いながらも、それらが社会問題として追及されることはない。いくつもの迷いと停滞を伴いながら旅をする少女たちの姿を、軽やかに、ユーモアをこめて描くこと。その視点と手法に驚き、正直なところ若干の戸惑いを覚えた。妊娠出産に対して悩み苦しみ、最終的に決断をしなければいけないのは常に女性たちである。その現実をこれほど軽やかな視線で描いていいものなのか。それでも、この映画が見せてくれた少女たちの奇妙な連帯のありようは、ひとつの視点では語りきれない現実の複雑さを、たしかに見せてくれる。
冒頭シークエンスを見て、なるほどこれは優秀な泥棒一家の話なのかと早合点した。幼い子供たちと夫婦らしき若い男女(ジョシュ・オコナーとアラナ・ハイム)が、小さな美術館を訪ね、帰っていく。そのたった数分間で、ジョシュ・オコナーはまんまとあるものを盗み出す。人気のない美術館のあちこちにそっと目を配る用意周到さ。音を立てずに作品を盗みポケットに忍ばせる滑らかな手つき。それは一見誰の気も引かないような小さな盗みだが、ハッとするほど見事な仕事ぶりだ。セリフもなく、音楽と簡潔な動作の連鎖だけでつくられたこの美しい冒頭場面に、ケリー・ライカートがこれほどスリリングな犯罪映画をつくるとは、と驚いた。
だがその印象は間違いだったとすぐにわかる。ジョシュ・オコナー演じるJBという男は、仲間を集め、警備の手薄な地元の美術館を襲撃し美術品を盗み出そうと考えるが、その計画はみるみるうちに綻びを見せていく。急進的なエコテロリストたちによるダムの爆破計画の顛末を、犯罪行為そのものが何のカタルシスももたらさない映画として描いた「ナイト・スリーパーズ」(13)のように、この映画もまた、強盗団の首謀者(The Mastermind)を気取りながら次々に失敗を繰り返す男の、カタルシスなき犯罪映画なのだ。
「ファースト・カウ」(19)でのあの魅力的なミルク泥棒たちとは違い、JBが私たちの心を虜にすることはおそらくないだろう。1970年代、マサチューセッツ州で家族と暮らすこの男は、身に余る野心によって自滅していく男でしかない。裕福な両親に見栄を張り、妻を騙し、子供たちの面倒さえまともに見られない。冒頭で見せたあの滑らかな仕草は、次々に遭遇する不運と失敗のなかで、あっというまに失われていく。メルヴィル映画のような仲間との連携や裏切りのドラマもない。ずるずると、惨めに、彼はただ失敗をくりかえす。
犯罪映画というジャンルから、映画はあっというまに逸脱していく。流されるままに旅に出る男は、古い友人を訪ね、安宿に泊まり、土砂降りのなかで惨めに雨宿りをする。くすんだ色の風景の中に、痩せ細り汚れ切ったひとりの男が徐々に同化していく。その時間の流れは、残酷だがこのうえなく美しい。
「あなたの顔の前に」(21)、「小説家の映画」(22)と、近年はホン・サンス映画の常連俳優としても知られるイ・ヘヨンが主演した本格アクションスリラー。イ・ヘヨンが演じるのは、伝説の殺し屋「チョガク(爪角)」。悪人だけを殺すという確固とした理念のもと、何十年もの間、数えきれない仕事をこなしてきた彼女は、組織のなかでも特別な存在だ。だが、彼女の完璧だが孤独な生活は、年老いた一匹の犬との出会い、そして新たに組織に加わった謎の若い男の出現により、思いがけない変化を迎えていく。
原作は、ク・ビョンモの小説「破果」(小山内園子訳、岩波書店)。韓国では熱烈なファンを呼んだというノワール小説で、2022年に邦訳が出版された。この人気小説を映画化したのは、「アンティーク 西洋骨董洋菓子店」(08)、「愛の終わり、私のはじまり」(21)のミン・ギュドン。誰にも心を開かず、自ら課したルールによって生きるプロの殺し屋だが、唯一愛犬にだけ心を開く。黒いコートに身を包み、笑いを封じたイ・ヘヨンのキャラクターは、キアヌ・リーブス主演の「ジョン・ウィック」を思わせる。映画は、フラッシュバックを多用しながら、身体的にも精神的にもある大きな変化を迎えようとしているチョガクの現在と、暗い過去とを交互に描く。そして彼女の過去が明かされていくにつれ、若い殺し屋との因縁が徐々に浮かび上がる。
孤独な女性の心を癒す純粋無垢な少女と、正義感に満ちた善良な父親。過去に囚われ、サイコパス的な行動を見せる若い殺し屋。それぞれの人物造形やストーリーの展開はどこかステレオタイプ的だ。とはいえ、美しい白髪と皺を湛えたイ・ヘヨンが堂々と肉弾戦を演じる姿に、心打たれずにいられない。60代の殺し屋の話には、当然、“老い”というテーマが重要になる。病によって衰えていく体と向き合い、若い世代によって変わっていく社会にどう付き合っていくか。ぼろぼろの肉体に鞭打ちながら、彼女は最後の戦いに挑む。
何より惹かれたのは、家族という主題を扱いながらも、この物語が、いわゆる母性といったものに回収されない点だ。チョガクは何度も「家族」という言葉を口にするが、それは必ずしも血縁関係を要する関係ではない。誰にも頼れず、孤独で、何の役にも立たないものとして扱われた者たちが手を取り合い互いを助け合う、そうした結びつきこそ家族であるとこの映画は宣言する。母と子、妻と夫といった言葉で定義する必要などどこにもないのだ。
「水を抱く女」(20)の公開時、ペッツォルト監督は、これは3部作のうちの第1作になるだろうと語っていた。実際彼は、“水”の精ウンディーネを扱った「水を抱く女」に続き、“火”をモチーフにした「Afire」(23、日本未公開)をつくった。では「Mirrors No.3」は三部作の最終章にあたるのか。水、火、に続き次は何がモチーフとなるのか。IndieWireのインタビューで、ペッツォルト監督はこう答えている。実はこれが何をモチーフにした映画になるのかは最初わからなかった、けれど本作の撮影場所となる家に行き、じっとポーチに座っていたとき、吹き荒れる強い風を全身で感じながら、ふいに、これが三部作の最終章になるのを確信したと。
その言葉通り、この映画では常に素晴らしい風が吹き荒れている。そういえば「水を抱く女」の冒頭でも、パウラ・ベーアの髪を激しく揺らす風が吹いていた。前2作に続き主演するパウラ・ベーアが演じるのは、若きピアニストのラウラ。彼女は休暇で田舎町を訪れた矢先、自動車事故で恋人を亡くしてしまう。事故で軽傷を負った彼女を助けたのは、近くの家に暮らす女性ベティ(バルバラ・アウラ)。目覚めたラウラは、病院や警察署ではなく、初めて出会ったベティと共にこの家で休養することを望む。戸惑いながらもベティはラウラを歓待し、二人の間には不思議な絆が生まれていく。
ラウラとベティという二人の女性の間で起きる化学反応の行く末を、観客は息を詰めて見つめることになる。ベティが用意した服を着て、並んで塀のペンキを塗り、一緒にご飯をつくり、望むままにピアノを弾いてあげるラウラ。両者の間に生じるのは、女性同士の親密な友情のようだが、眠るラウラをじっと見つめるベティの視線には、切実な何かがある。時間が経つにつれ、どうやらベティにはまだ伝えていない過去があるらしいとわかってくる。謎を解く鍵は、ベティの家族である男たちの来訪によってもたらされる。
夏の間に生まれた女性たちの奇妙な関係と、その過去を解き明かしていくミステリー、とひとまずは言える。だが、この映画を形作るのは、謎やサスペンスといった要素だけではない。音を立てて吹き荒れる風。その風に揺れる木々の葉。二人乗りをした自転車の立てる音。弧を描いて道を転がる車のタイヤ。張り詰めた空気のなかでふいに訪れる、物語から切り離された一瞬の時間が、心に焼きついて離れない。
ペッツォルトの映画ではしばしば印象的なポップミュージックが挿入される。この映画でもまた、ある忘れられない曲が爆音で鳴り響いていた。