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photo:野﨑慧嗣

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李鳳宇(前編)

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生嶋マキ


最初の韓流ブームをつくり、『シュリ』へ

1月15日に公開される映画『ひかり探して』。李鳳宇(リ・ボンウ)が『記憶の戦争』に引き続き配給する韓国作品だ。

李鳳宇といえば、『シュリ』(2000年)、『JSA』(2001年)をヒットさせ、韓流ブームの火付け役と呼ばれる映画の名プロデューサーだ。かつては、シネカノンを作り、『月はどっちに出ている』や『フラガール』、『パッチギ!』などで映画賞の数々を獲得。

李鳳宇が切り開いてきた韓国映画と日本映画のつながり。自身から見た韓国エンターテイメント。そして、自らが進もうとしているこれからの道。2回連続でのロング・インタビューを行った。

――膨大な数の映画の制作と配給には、驚かされました。それも韓国だけでなく、欧米、アジア全般に渡っておりますが、そもそもスタートはどこだったのでしょうか。

僕が最初に配給した映画はポーランド映画で、クシシュトフ・キェシロフスキ監督の『アマチュア』です。次に同じ監督の『トリコロール』、そこからフランスのクラシック映画、ジャック・ベッケルやジャン・グレミヨン、ジャン・ルノアール監督の映画へいくのですが、それがシネカノンの始まりでした。中でも、ジャック・ベッケル監督の『穴』がヒットしまして、ああ、クラシックでもヒットするんだ、という感覚を得て作品を増やしていくんです。当時、日本の配給会社は今ほどたくさん存在していなくて、ヨーロッパ映画を扱っているのは、フランス映画社、日本ヘラルド、シネセゾンくらい。その下に小さな会社が4つ、5つあるんですけど、暗黙の協定のようなものがあり、争いもなく棲み分けができていたんです。

それが崩れたのは、90年になってすぐです。おそらく、いい意味でも悪い意味でも、ギャガ・コミュニケーションズ(旧社名)のような映像商社が台頭してきました。90年代のビデオレンタル全盛時代ですかね。

――李さんはそこからどのように韓国映画の配給へと傾倒していったのでしょうか?

そんな中、僕はコツコツと好きな映画を買おうというスタンスでいたところ、1994年くらいだったかな。たまたまカンヌ映画祭へ行った時のことです。今はKOFICというのですが、その前身で韓国映画振興公社という、国がやっている公社があるんですけど、その年のカンヌの監督週間に韓国映画が出るよ、というのを前もって聞いていたんですが、それが急遽、取りやめになったと。理由を聞くと、その作品の監督は大ベテランなのに、自分は今さら監督週間ではないからお断りしたという。

へえ、そんなベテラン監督さんがいるんだあ、と気に留めながらマーケットにいくと、そのVHSを借りられることになって、ホテルで見たんです。それが初めて配給することになった韓国映画『風の丘を越えて』です。原題では、『西便制(ソピョンジェ)』。パンソリという韓国の伝統文化であるパンソリにたずさわる親子の話なんですけど、後にも先にもあんなに感動したビデオの視聴はありません。どうしてこんなに感動するんだろう? と自問自答しても答えは見つからない、とにかく素晴らしいんです。「よし、この映画を買おう!」 と決めて、帰国してすぐにファックスしたのが、製作会社の泰興(テフン)映画社という会社でした。

――1993年、韓国で映画史上初めて200万人を動員した映画ですね。

泰興社からは、すぐにいらっしゃい、という返事が届きました。でも、僕は当時、朝鮮籍で、日本では無国籍状態でパスポートを持っていなかったんです。留学中でもどこへ行くにも、再入国許可証というものを申請しないといけなくて。そこで、すぐに韓国領事館へ行って、『西便制(ソピョンジェ)』を買い付けたい思いを滔々と話すんですけど、これがまったく取り合ってくれず。お前は朝鮮籍だろ、韓国へは何しに行くんだ、と。いやいや、ただ心底その映画を日本へ持ってきたいんだと。そう言っても領事は無反応。そこで翌日またアポなしで訪ね、待ち伏せして彼を飲みに連れ出したんですよ(笑)。

飲み屋ではひたすら映画の話をし、「僕が配給したら、韓国映画の歴史が変わりますよ」と大風呂敷を広げ、“ソピョンジェ”がいかに素晴らしいかを語り、最終的には臨時パスポートを出してくれたのですが、それが48時間以内有効、それが過ぎたら2度と韓国へは入れない、という限定的なパスポートでした。

――それこそまるで映画みたいですね(笑)。脱出劇が繰り広げられそうですが、実際の買い付け劇はどうでしたか?

向こうでは、見張り番の黒服の男が3人、空港からホテルまでついてきました。それが元KCIA(韓国中央情報部)、今のアンギブ(国会安全企画部部長)の人です。ホテルの部屋の中までチェックして帰りましたけど、僕のことを隈なく調べ上げている感じでした。

泰興社といえばその頃、国産だけではなく外国映画も配給しながら、制作もする大きな会社で、代表者の李泰元は韓国映画界のボスです。よく覚えているのは、会社の玄関で待たされている間、“オマエぶっ殺すぞ!”と電話口で誰かにスゴんでいる男性、それが泰興社の社長、イ・テウォンさんだったというオチ(笑)。会って5分もしないうちに、冷麺屋へ連れて行かれ、焼酎10本ほど空けながら彼の身の上話を聞いていました。本当に熱く豪快な人で、朝鮮戦争を生き延びて南に渡ってきて、建設業者から財を成して映画会社を作ったと。

映画とはまったく関係ない家庭の話を一通りした後、「ところで、なんで韓国映画をやりたいんだ?」と真顔で聞くの。僕がことの経緯を説明したところで、場所をヒルトンホテルの宴会場へ移動して、『西便制(ソピョンジェ)』の監督の林權澤、カメラの鄭一成 、主演のオ・ジョンヘを呼び出して、宴会が始まりました。いやあ、熱いんですよ、また。みんなが泣きながら映画を語り、オ・ジョンへは歌い、店中の人が集まってきちゃって(笑)。

結局、ベロベロになって朝帰りしたんですけど、48時間以内に去らないといけないじゃないですか。ホテルに2時間も滞在しないままチェックアウトしたところで、イ・テウォン社長の息子さんが車で出迎えてくれて、空港まで送ってくれました。車中、契約のことばかりが頭によぎりましたが、息子さんから、 「うちの社長が李さんのこと気に入ったって」と茶封筒を渡されて、中をみたら契約書が入っていました。しかも、金額は記載されておらず、その値段はあなたが入れなさいということで。

本当にすばらしい人です。信頼されているんだなって感じましたし、全力でやろうと決意した末に、今まで韓国映画で一番高い買い付け値段はなんだろうと。それで、一番高い値段を覚悟して書いたんです。ああいうやり方ってあるんだなって感心しました。当時は僕も若かったけどかなり大胆な決断をしました。

そうそう。あとで聞いたら、彼はその年のベルリン映画祭で、私が作った『月はどっちに出ている』を観ていたらしいです。興味を持ってくれていたらしいんですよね。

そこから泰興の扱う映画を他にもたくさんやりましたが、合計で6本だったかな。その中でも『風の丘を越えてー西便制』が一番成功しました。最初は、映画館も韓国映画に間口を開いてくれなかったし、試写会を組んでもほとんど来てくれなかったのにね。

なぜ、こんなに長くイ・テウォンさんの話をしたかというと、つい先日(10月24日)、イ・テウォンさんが亡くなったんです。韓国映画のビッグボスがいなくなるのは寂しいよね。彼が作り上げた世界観、作品そして映画人たちは本当にすばらしい。今も感謝しています。

――試写会に人が入らなかったのに、なぜ日本で『風の丘を越えて』が大ヒットしたのでしょうか? 

このままだとコケるなと感じて、途中で、韓国映画臭を消して、音楽映画に切り替えたんです。途中から、ミュージシャンたちに見てもらうように積極的に働きかけて。当時の沖縄サウンズのネーネーズ、喜納昌吉、さらにジャズミュージシャン、民族音楽アーティスト、楽器屋さんとかに声をかけて、上映後は必ずパンソリのミニコンサートを開く。それを東名阪で行ったら、音楽関係者に口コミが広がっていき、大ヒットとなりました。本当は、アレが最初の韓流ブームだったと思います。

しばらしくて、泰興の常務から、「おもしろいシナリオがあるんですよ」と連絡が入りました。それが『シュリ』でした。読むと震えるくらい勢いがあるシナリオでした。

ただね、映画化なんてできるのかな? と首をかしげるくらい大スケールで、明洞のデパートが爆破されるとか、客席が満杯の競技場に爆弾がしかけられて……、そんなのできないよね? って(笑)。

それから2年後、完成しました、という連絡が入るんです。びっくりですよ。さっそく韓国の試写会へ行き見ましたけど、また、とてもこれがよくできていました。買い付け金額は1億円。悩みましたねえ。悩んだ末に、次の日の朝、8時半の回をもう一度見てみようと、観客と一緒に見たんです。当時、朝の上映は学生割というのがあったようで、学生だらけで満席。ラストの北のスパイと南の捜査員が銃を向き合うシーンで、「もう50年間も政治家に騙されてきた。彼らは統一なんて望んでいない。オマエは、中国に売られていく子どもを見たことあるか、餓死して木の芽をむさぼる男を見たことあるか? チーズやハンバーガー、コーラで育ったオマエらにはわかるまい。俺は南北を統一するために戦争を起こすんだ」とチェ・ミンシク演じるスパイが話すんです。そのセリフで学生みんなが泣いているんです。ああ、こういったセリフが現実をついているのか、とハッとしたんです。映画はこういうセリフひとことで名作になるんだと納得しました。その足で100万ドルの契約をしました。これを、東京国際映画祭に出そう、韓国映画を渋谷のオーチャードホールでかけようとずっと思っていたので、ひとつの夢が叶う瞬間だと思いました。

――韓国で初めて600万人を超える記録的なヒットを飛ばした『シュリ』。

当時の東京国際映画祭のゼネラルプロデューサーは、徳間康快さんだったのですが、昔、僕は徳間ジャパンで働いていたので存じ上げていて、徳間会長のところへ挨拶に行って交渉して上映が決まりました。

ところが、数日後、会長から大慌てな様子の電話があって、映連の会議で反対者が出たというんです。北朝鮮のスパイが銃殺されるオープニングシーンに、朝鮮総連が抗議してくるんじゃないか、朝鮮総連がオーチャードホールを街宣車で抗議したら困る、という意見が出たと。焦った僕は会長のところへすっ飛んでいき「逆に韓国で抗議運動があったらどうしますか。なので、今から朝鮮総連へ行って、抗議するかどうか聞いてみましょう」と、総連へ会長を連れていきました。交渉は、金日成の肖像画が飾られた大広間で行われたのですが、単刀直入に「シュリ」の内容を伝え、もし上映されたら抗議しますか? と聞くと、同席した総連の方々はみんな顔を見合わせて「するわけがない」と笑っていました。

結局、オーチャードホールの会場はすでに埋まっていて、臨時で渋谷公会堂を開けたのですが、客席は2千人ほど。音も悪いわ、スクリーンは小さいわ、朝から雨だわ、でしたが、限定で1日上映しました。そこから、上映がとりやめになったヤバい映画、韓国で記録的な大ヒットしまくりの映画、などなど、最初は18館で上映していた『シュリ』は全国に広がり、最終的に200万人近く動員しました。韓国のみならず、アジア映画として異例の大ヒットです。

そうそう、当時大盛況だった映画館、渋谷のパンテオンで4回全回満席です。スクリーンの入り口まで人が何重にもズラーっと並んでいる光景は、映画人としての夢でしたし、本当に嬉しかったですね。2000年のミレニアムの年です。そこがアジア映画の歴史が変わった瞬間です。

*1月12日(水)配信 <李鳳宇 後編>に続く

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「ひかり探して」


李鳳宇(リ・ボンウ)

1960年京都府生まれ。プロデューサー。スモモ、マンシーズエンターテイメント代表取締役。1989年にシネカノンを設立し、『パッチギ!』、『シュリ』、『フラガール』など多くの作品を製作配給する。今後は22年1月より『ひかり探して』の配給のほか、韓国映画『建築学概論』をリメイクするNetflix『恋に落ちた家」(山下智久・主演)の制作、舞台版「パラサイト」などプロデュース作品が続く。


「ひかり探して」

監督・脚本:パク・チワン
出演:キム・ヘス/イ・ジョンウン
2020年/116分/韓国
原題:The Day I Died: Unclosed Case
配給:スモモ、マンシーズエンターテインメント

1月15日(土)より渋谷 ユーロスペースほか全国順次公開


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