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PEOPLE / ビー・ガン
現実が夢に介入する、覚醒の術

Photo by : 野﨑 慧嗣

佳い映画を観ていると、「終わらないでほしい」と思うものだ。「ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ」は、まさにそのような作品である。だが、終わらない映画はない。だから、本作には映画を終わらせないための、果敢な抵抗がある。後半60分はワンカットで途切れることなく展開。しかも、そこだけ3D映像である。長回しという原初的な手法を、デジタル技術で極限まで推し進める。そのありようは、過去を未来に連結しつづける「終わらない現在」を目の前に出現させる。

映画は時間芸術である。その批評としても、あの驚異的なワンショットは存在している。「あなたは、この映画で時間をどうしたかったのか?」。訊いてみた。

「この問いに対しては、もしかしたら、映画に登場する(小さな)花火を答えにするのが面白いかもしれない。僕も、いい映画やいい音楽に出逢ったなら、それが永遠に終わらないでほしいと願う「人種」です。あの花火を撮ったのは、花火というものは束の間のものだけど、映画の中では、束の間より少し長く感じることができたかもしれない。その少しだけ長く感じることができた花火を「見る」ことで、問いを投げかけられたかもしれない。永遠とは何なのか。この瞬間こそが永遠なのではないか」

監督ビー・ガンは、いきなり結論を口にした。この映画の中に灯る、小さな花火こそが永遠。終わらないものは実在する。「ロングデイズ・ジャーニー」を体験するということは、まさにそのようなことである。

映画の舞台は2000年。2000年は21世紀の始まりではなく、20世紀の終わりである。「2000年になっても何も変わってないじゃないか」という劇中の台詞にも、「終わること」「終わらないこと」への言及が感じられるのだ。

「とても小さなディテールを、よくぞ発見してくださいました。2000年は僕にとっても、特別な年でした。1999年から2000年というのは、単に20世紀の終わりということだけではなかった。人類の終わり、つまり、人類が滅びてしまうかもしれない。そんな怯えについて話していた人も少なくなかったはずです。そう口にすることで、2000年に対して複雑な感情を抱くことにもなったと思います。ほんとうに世界が終わる「その日」を信じている人は、ある種のアウトサイダーだと思います。もっと言えば、孤独な人がそれを信じていた」

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その、特別な孤独について興味がありますか。

「あります。なぜならば、次の作品は「孤独」をテーマにしています。だからこそ、あなたの発見はとても有意義だと思います」

インタビューそれ自体が、時間を逆行しているように思える。 だとするならば。

次の作品は、この映画を撮ったことが影響していますか。つながっていますか。

「この二部作(第1作「凱里ブルース」と第2作「ロングデイズ・ジャーニー」のこと)は、僕にとって20代に撮った作品に当たります。そこでは、大きな事柄が接続しあっています。関係しあっています。もちろん、大きな違いもありますが、確実に関連している。30代は、20代とは違った方法で映画に取り組みたいと思っているのですが、その結果はわからない。また、これまでのような映画になるかもしれない」

わからない、ということを少し嬉しそうに、ビー・ガンは話す。

「ただ、年齢とともにシンプルになっていくような気はしています」

「ロングデイズ・ジャーニー」は決して無限的な作品ではない。そこでは、夢と現実が接続されている。わたしたちは、単に夢見がちに映画を流離うわけではなく、常に現実を意識しながら、この夢の中にいることになる。 60分のワンシーン=ワンカットの中には、卓球やビリヤードといった現実のドキュメントが記録されている。現実が夢に介入している。その、楔を打つような「覚醒の術」もまた、ビー・ガンという映画作家の特性に思える。

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