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A PEOPLE CINEMA

作家主義 相米慎二
相田冬二・対談


孤独な魂と、孤独な魂の邂逅

映画批評家・相田冬二にA PEOPLE編集長・小林淳一が聞く。テーマは「相米慎二」。

小林淳一(以下小林)相米慎二監督との出逢いは?

相田冬二(以下相田)「セーラー服と機関銃」ですね。自分の人生でアイドルと呼べる存在はほとんどいませんが、薬師丸ひろ子は唯一のアイドルと言えるかもしれません。薬師丸は、僕や小林さんのひとつ年上。僕は一人っ子だから、お姉さんに憧れていました。年上だったことは大きい。

小林 そうですね。常に自分より1年前を生きられていて。薬師丸さんが受験で休養して、1年後に受験して、薬師丸さんが大学に入って、またその後に大学に入ってというように、ずっと追っている感じでした。

相田 実は「セーラー服」で印象に残ったのは、薬師丸よりもっとお姉さんの風祭ゆきなんですよ。あの頃の映画を観ると、みんな大人。風祭さん、当時、20代後半かな。でも、いま、あんな大人っぽい20後半、いないですよね。いまみると、はすっぱな女の人がそれなりにかっこつけて話しているだけなんだ、ということがわかるんですけど。      

    経験を重ねると人生は豊かになるというのが人生の教育的な側面ですよね。だから、いつまでも子供じゃだめだ、はやく大人になれと言うわけですが。でも、いざ大人なってみると、さほど成熟しないんだ、ということがわかる。

    だから、大人になったところで大したものではないよ、でも大人になってみたら?
そう語りかけているのが、相米慎二の映画。当時はわからなかったけど、いま、そんなふうに思いますね。    

小林 そういうだらしない大人たちの中に最年少で、薬師丸がいる。母的にも見えてくるんですよね。組のひとりが抱きつくところとか。    

相田 母恋しいだけなのか、それとも恋愛なのか、観る人によって受け取り方は変わりますが。ただ、有名なバイクの長回しのシーンも、あくまでも元・少年と現・少女。彼は少年ぶっているけれど、少年ではない。もう大人なんですよ。    

    大人になっても、何かがすごく変わるわけではないし、すごく人間的に成長するわけではない。でも、伝えられることはある。「セーラー服」はそういう映画だし、あの場面にはそれが出ていますよね。    

小林 渡瀬(恒彦)さん以外は、星泉(薬師丸)が好きだった。    

相田 それこそアイドルということですよね。アイドルとファンの関係って、親分と子分の関係ではないかと最近、思っていて。本来、組長がアイドルで子分は仕えるだけでいいはずで。    

    でも、最近は子分が(SNSとかで)あれこれ文句を言うわけです。親分が親分らしくあるためにとかいうんだけれど、いろんな親分がいていいはずで。それぞれの親分にふさわしい子分でいられればいいのになって。「セーラー服」を再見して、アイドルとファンの関係性について考えましたね。    

小林 結局、(いまは)親分のためでなく、自分のしたいことをしてしまっている。    

相田 相米慎二におけるトライブ(族)の在り方って、そういう気持ち悪さがないよね。いまの時代のトライブ(族)の在り方って、居心地が悪い。誰かのファンであることが存在証明になるというのは、しがみつきすぎなんじゃないか。相米が描く、人と人との関係性はそうではなかった。    

    孤立した魂と、孤立した魂の邂逅が貫かれている。

    コミュニティですよね、あれは。「セーラー服」はコミュニティの話だと思うんです。恋愛でも、青春でもない。主人公には社会性がある。やくざの相手もすれば同級生の相手もする。八方美人ということではなくて。でも、抱きついてきた人のことは、ちゃんと受けとめる。投げかけられた言葉も心も、きちんと受けとめる。この処世術は現代に通用するし、学べることだと思います。    

小林 思えば「翔んだカップル」もそうでしたね。勇介、圭、中山、杉村。4つの、孤独な魂と魂の邂逅。    

相田 「雪の断章―情熱―」はそれが3つ。「ラブホテル」なら2つ。孤独な魂と魂の邂逅。    

小林 コミュニティということを考えたとき、相米はクリント・イーストウッドが好きと言っていますよね。    

相田 そこは、面白いですよね。ふたりは違うから。イーストウッドって、個人の生理。相米はコミュニティの生理だと思うんです。世界に正義はひとつしかない、ということを、個人的にやっているのが、イーストウッド。

    そこから比べると相米のアプローチはコミュニティ的なんです。極小のサークルなんですけどね。日本は長屋の文化だから、やっぱり肩を寄せ合っているんですよ。    

小林 アメリカは個人主義であり、イーストウッドはそれを体現していると。相米は自分と真逆だからイーストウッドに憧れたのか。

相田 イーストウッドは「運び屋」を見るとよくわかりますよね。ひとりで車を運転しているのが好きなんです。

小林 相米映画のキャラクターは、みんな孤独にはなりたくない。一人じゃ何もできない。

相田 相米は寂しがり屋だったかもしれない。それを好きだった文学や映画が下支えしていたように思えます。

    日本映画の伝統を受け継いでいるとしたら、やはりコミュニティということだと思うんです。撮影隊というコミュニティも信じていたし、俳優同志というコミュニティも信じていたし、ともすれば表方・裏方という間に派生するコミュニティも信じていた。それがないと生きていけないくらい。

小林 確かに、撮影所システムが崩壊した後に、その再興みたいなことをやっていたような気がしますね。意識的だったかはともかくとして。「壬生義士伝」が実現していたら撮影した場所をテーマパークではないですが、それに近いものとして残されようとしていた。でも、それって、もはや撮影所ですよね。

    相米には、年間11億人に映画が見られていた日本映画の黄金時代に、大人の間を縫って立ったままじーと映画を観ていた少年、という勝手なイメージがあるんですよ。

相田 「みんな」と一緒に見ていたという感覚があったんじゃないかな。

小林 マークにはこだわっていましたよね。「翔んだカップル」で東宝、「セーラー服」で東映、「魚影の群れ」で松竹、「ラブホテル」でにっかつ。あとは大映だけって。でも、当時、大映の映画を撮るのって難しかったじゃないですか。・

相田 でも「光る女」で大映ができたと。よくやりましたよね。新しいコミュニティをつくりあげていたと思うんですね。東宝、東映、松竹、にっかつ、大映、それぞれの撮影監督とやる。伝統とコミュニティの融合。当時として、それは新しい形だったと思いますね。大きな理念を、親密な規模のコミュニティで継承する。そこが新鮮だった。

小林 映画のルックを決めるのはキャメラマン。でも、照明や美術や衣裳はあまり変えていないで、言い方はともかく“相米常連組”を連れてくる。そして、撮影監督が違っても相米らしい相米映画ができあがる。

   「ラブホテル」の話を福本淳さん(キャメラマン)に取材で聞いたんです(福本さんは「夏の庭」(撮影・篠田昇)の撮影助手だった)。篠田昇さんの1作目じゃないですか。
撮影初日、篠田さんは張り切ってレールを引いたり、がんばってやっていたそうです。そしたら常連の方たちに「やめたほうがいいよ。無駄になるよ」って。実際、無駄になったと。でも、それが素晴らしいこと。あくまで役者が動いて、照明も美術も撮影も決まるというのが、相米慎二なんですよね。

相田 結局、俳優もスタッフも裏方も含めてコミュニティを信じるということですよね。行定勲が言っていたけれど「ぜんぶ、横並びなんだ」と。末端のスタッフまで一緒にものづくりをするのが現代の在り方で、それを行定は相米から学んだと。

    監督が絶対、とういう考え方はあるじゃないですか。実はそれを変えていったのが相米だと思うんですよね。変革は強引なものだから、誤解も呼んだかもしれないけれど。

小林 相米は風貌や神話も含め、そういう絶対的な監督と思われた時期もあると思うけれど、そうではないとファンや相米を好きな批評家はもうわかっています。違う意味で絶対的な人ではあるんですが(笑)。

    今回の上映は相米の没後20年ということで、デジタル以後、コロナ以後の映画の可能性を相米慎二に見るということがやりたかった。その点は、いかがでしょう。

相田 いまも昔も変わらない大事なことがある。監督は、スタッフ、俳優、観客を本気にさせたほうがいい。そうして、芸術を作る側と見る側が共に本気になる。これもまた、普遍のコミュニティであると信じます。本気のコミュニティ。

小林 相米は先んじてそれをやっていた。だから、僕たちは本気になって相米慎二を観た。


ミニシアター×オンラインシネマイベント
「没後20年 作家主義 相米慎二 〜アジアが見た、その映像世界」

2021年2月6日(土)~2月19日(金)
渋谷 ユーロスペース

予告編
公式サイト


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