text
夏目深雪
生成するファンタンジー
高校生の男女の恋の道行きが、お互いの両親の妨害から怪しくなっていく過程を鮮烈に描いた「十八才」(09)で颯爽と長編デビューしたチャン・ゴンジェ。
長編2作目「眠れぬ夜」(12)ではジュヒとヒョンスという、新婚2年目の夫婦の日常をリアルかつ魅力的に描き話題を呼んだ。
長編3作目にあたる「ひと夏ファンタジア」(14)は、奈良を舞台に映画監督テフンと助手のミジョンという2人の韓国人が地元の人々の話を聞いていく一部と、奈良を観光している韓国人女優へジョンと日本人男性ユウスケとの出会いと別れを描いた二部で構成される。
いずれも男女の恋愛感情がドラマの基盤になっているが、テイストも形式も違う。
「ひと夏のファンタジア」は、キム・セビョクと岩瀬亮が一部と二部で違う役を演じ、舞台は同じで同じ役者が違う役を演じる三部構成の「3人のアンヌ」などのホン・サンス作品の影響を感じる。
いずれも、遊戯的・映画への自己言及的な二部(三部)構成と言える。
だが、浮気やアヴァンチュールを繰り返すだらしない男女の通俗的な性関係と、映画の虚構の自明性が対比となり、独特のユーモアと詩情を生み出すホン・サンス作品と較べると、男女の恋愛感情の純粋さ、瑞々しさに素直に感動させられるのがチャン・ゴンジェ映画の特徴である。
何よりも、前半は映画監督、後半は女優が主人公であり、映画をめぐる作品であろう。
「ひと夏のファンタジア」は前半はモノクローム、後半はカラーで撮られ、前半のラスト、テフンが窓の外に見る花火からカラーになる。
前半と後半は(役は別だが)同じ役者が演じているという共通点の他、小学校の廊下に飾られる写真など接点があり、この辺りの小道具の使い方も「カンウォンドのチカラ」(98)等のホン・サンス作品を彷彿とさせる。
後半のラストも花火で締められ、前半と後半は並行世界のようでもあり、また花火が「皆が同時に見る」という意味で映画のメタファーのようでもある。
様々な読みを可能にした開放的な映画であるが、人物のリアリティと奈良の風景によって、絵空事になるのを回避している。
日本を舞台にして韓国人俳優や中国人俳優を使って撮るのは、チャン・リュル監督などもいるが、あくまでリアルな人物からファンタジーが生成されるのがチャン・ゴンジェ映画であろう。
日韓合作映画であるが、第一部の、通常ならまどろっこしく感じるであろう、ミジョンがする日本語/韓国語の通訳がすこぶる魅力的だ。
そしてもちろん、第二部にてユウスケをノックアウトするヘジョンの拙い日本語も。
「眠れぬ夜」のワンシーン、ジュヒがヒョンスの横で、寝転がって足を上に伸ばしているだけなのだが、そのフォルムの美しさに陶然としてしまったように、キム・セビョクの日本語にただ聞き惚れてしまう。
女性の足や声だけで何かが生成され、何かが起こるのである。そんな魔法を起こせるのがチャン・ゴンジェであり、その点だけ挙げても、男尊女卑が強く、耐える女性ばかり長らく描いてきた韓国映画に突然現れた彗星のようだと心から思う。
映画と(睡眠時に見る)夢は似ている。だが、いくら形式的な遊戯を映画内で行っても、アピチャッポンやホン・サンスのような“夢オチ”はチャン・ゴンジェは行わない。
「ひと夏のファンタジア」において、テフンが夢から覚めたところから色がつき、第二部が始まることが重要である。
チャン・ゴンジェにとって映画は夢ではなく「何かが起こり、生成する」場所なのである。
それは夢のもう一つの意味なのかもしれないし、われわれが「恋」と呼ぶものかもしれない。
あくまで男女の相互作用によって生成するファンタジーであり、それを女優たちの身体や声が担保している。
「ひと夏のファンタジア」
監督・脚本:チャン・ゴンジェ
出演:キム・セビョク/岩瀬亮
2014年/96分
原題:한여름의 판타지아/A Midsummer's Fantasia
© Nara International Film Festival+MOCUSHURA
第19回釜山国際映画祭 監督組合賞(2014年)
第40回ソウル独立映画祭 スペシャルメンション(2014年)
第3回茂朱山里映画祭 ニュービジョン賞&全北批評家フォーラム賞(2015年)
第35回韓国映画評論家協会賞 FIPRESCI韓国本部祭賞(2015年)
第16回釜山映画評論家協会賞 最優秀脚本賞(2015年)
第3回ワイルドフラワー映画賞 撮影賞(2015年)
第16回Asiatica Film Mediale 最優秀劇映画賞(2015年)
「映画監督チャン・ゴンジェ 時の記憶と物語の狭間で」
配給:A PEOPLE CINEMA/chocolat studio
3月7日(金)より ユーロスペースほか全国順次公開